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Frosty Night(逝くなら霜夜に!)

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この地球に生まれてきた訳は、確かな信念を持つために、制約された条件の中でひとつのことに邁進し、思いを具現化させるため

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c0007384_17464767.jpg父が亡くなったのは、私が高校二年の冬だった。
父と過ごした時間よりも、父がいなくなってからの時間の方がはるかに長くなってしまった。
それでも、父の亡骸が家に戻ってきた時のことは、今でもはっきりと覚えている。
眠っているような穏やかな顔で横たわる老いた男は、形こそ父そっくりではあったが、もう私が知っている父ではなかった。

何かが足りない。

体のぬくもりとか、聞こえない息づかいとかだけではなく、もっと決定的に父を父として成す一部分が欠けているという感覚。
ああ、これこそ人が死ぬということなんだと、私は父の冷たい足先をさすりながら思い知った。

父は宗教的教義からではなく、哲学的見地から、『人間は肉体と魂と知恵でできている』と、よく言っていた。
常日頃、父がそう話してくれていてよかったと思う。
父の体がなくなっても、どこかで魂は元気にしているのだともしも思えなかったら、父の体が焼かれることなど耐えられなかったに違いない。
国や宗教によっては死者への冒涜とさえ言われる火葬が、日本ではこれほどまでに広く認知されている。
それは、死んだら魂は天国に行って幸せに暮らすのだという世界観が、私たち日本人の心の奥に、深く根づいているからかもしれない。

確かに、魂や天国があるのかは証明できない。
でも科学的に証明された『事実』だけが、人を幸せにする『真実』というわけではないだろう。
大きくなる過程でサンタクロースは本当にはいないんだと知っても、プレゼントが届くのを心待ちにした思い出は消えることがない。
それと同じで、父の魂は天国で私たちを見守ってくれていると私は信じたい。
たとえそれがファンタジーだとしても、父がときおりは風になり、花になり逢いに来てくれるのだと。

実際父のことを思い出すと、私は自分の右上のあたりに父の存在を感じる。
それは私が捏造したものかもしれないけれど、父の笑顔をエネルギー化したようなあたたかい何かが、降りそそいでくるような気がして仕方ない。
不思議なものだ。
父が生きていたときはケンカばかりしていたし、反抗期真っ盛りだった私は、ほとんど口もきかなかった。
それが、形ある父を失ってからの方が、私は一方的に父に話しかけているし、夢に出てくる父はいつも穏やかに微笑んで、黙ってあたたかい手で私を励ましてくれたりするのだ。

 愛する人を亡くすということは、もういままでのような関わりができなくなるということだ。
一緒にご飯を食べたり、テレビを見たり、笑ったり、ケンカしたり、そういう平凡な繰り返しが、ある日突然リピートできなくなる。
それはとても辛く悲しい体験だ。
決して幸せとは言い難い感情だろう。
けれど、愛する人との関わりは死んだら終わりというわけではなさそうだ。
そのことを、私は父の死によって人より先に知ることができた。
だから愛する人といつか別れなければならないことを、私はあまり不安に思ってはいない。
別れは私だけに訪れる不幸ではなくて、誰にでもやってくる変化の扉なのだ。

その前に立つ日がまたやってきたら、怖れずに扉を開けよう。
泣きながら開けるその扉は、結局は幸せにつなげることができると私は知っているから。
by linket | 2007-04-29 14:11 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(2)
c0007384_7535352.jpg髪がだいぶ伸びてきて鬱陶しくなったので、カットに行った。
カットで行く美容室は、かれこれ10年以上通っていて、私と同い年くらいの男子が一人でやっている。
鬱がひどかったときに、やる気満々の美容室には恐ろしくていけなかったところ、友達がこの美容室を紹介してくれた。
植物のように静かな兄さんが、まるでやる気がなく(やる気はないが腕はある)淡々と仕事をしてくれるので、すっかり気に入って、それからずっと通っている。

この間、紹介してくれた友達が、
「美容室に行ったら、富山さん(仮名)、なんか病気したらしくて、すんごい痩せちゃってたよ。」
と、言っていたのだが、ほんとに人相が変わるくらい痩せていた。

「うわぁ! ほんとに痩せたね。」
「死んじゃいますかね。」
「平気、平気。私、死にそうな人ってわかるんだ。」
「えーっ? そうなんですか? やっぱり黒く見えるんですか?」
「う~ん、見えるわけじゃないんだけどね。黒っていうよりも、明るく白っぽい感じがするっていうか?」
言葉ではうまく言い表せないけど、高村光太郎のレモン哀歌にある『かなしく白く明るい死の床』みたいなものが伝わってくるんだ。
「だからね、富山さんはまだ死なないよ、大丈夫。」

いや、ほんとは全部の人の死期がわかるわけではないが、まあ、ここはプラシーボ効果をねらってはったりをかましておく。
嘘から出た誠ってことわざもあることだし、たとえ死ぬことがわかったとしても、私は誰かに対して「あんたは死ぬ」なんて予言したりしない。
本当の本当には未来は変えられるからね。

地方から出てきて、いまだひとり暮らしの富山さん。
「ねえ、こっちに友達とかいるの?」
「いませんよ。というか、もともと友達いないんですよね。」
「やっぱり。」

一人だからといって寂しがるわけでもない自立した静けさが富山さんにはある。
そこが楽なんだよね。
積極的にはなにかとつながろうとせず、かといってそれについて自己否定もしないから、すごく素直に彼は彼なのだ。
だけど普段元気に生活してるときはそれでいいけど、なにかあったとき、人は絶対に誰かの手をわずらわせないといけなくなるだろうから、ついおせっかいな私は
「あのさ、もしも倒れるとか死にそうとかいう時は、私が予約した日にしなよ。そしたら面倒にならないように、全部手配してあげるからさ。」
と、言ってみた。

「とりあえず、田舎に家族とかいるんでしょ?」
「ええ、まあ。」
「じゃ、遺体の始末はその人たちがやってくれるから、救急車とか、警察とかの対応は任せてよ。」
こんな縁起でもない話をすると、怒る人も多いのだが、富山さんはちゃんと自分の死後についても想定していて、フラットに聞いている。
「ほんと面倒だから、死ぬときは消えてなくなりたいですよ。」
「ああ、きれいに生きてるとね、七色の光になれるらしいよ。」
「マジですか?」
「うん。私、チベット密教が好きでそういう本読んでるんだけど、別に僧侶とかじゃない普通のおっさんでも、真摯に自分の人生を生き切ると七色の光になって、後に残るのは髪の毛と爪だけなんだって。」
「へぇーー、それ、いいですね。」
「たださ、7日間くらい、遺体を静かなところにほっとかなくちゃいけないらしいよ。」
「7日間も発見されないのは難しいですよね。」
「店の入口に『旅行中です』とか張り紙して、奥の部屋で死んじゃえば(あくまでも自然死の話。自殺はダメだよ)。」
「そうですねぇ。」
「そしたら7日目くらいに私が発見してあげるよ。警察では迷宮入りの事件になるけど、髪の毛と爪をみて『ああ、富山さんは七色の光になったのね、よかった』って、空を仰いでお祈りするよ。」
「いいなぁ、それ美しいなぁ。」
普通、ここでいいなぁって言わないよ、と話を振っておいて思うが、なんか富山さんならほんとにそんな風に静かに死んで、七色の光になれそうだ。

「いや、でも長生きしてよ。私、ここがなくなったら、すごく困るから。」
by linket | 2007-04-26 08:06 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(2)

災い転じて福となす

c0007384_14493949.jpgもうずいぶん前だがこんな夢を見たことがある。

何人もの人間が一列になってゲームをしている。
ルールは簡単!
崖のような斜面を登って下りてくるだけ。
ルールは簡単だが、競技は簡単ではない。
斜面は想像以上に勾配がきつく、息は切れ、節々が悲鳴をあげ、身体のあちこちが擦り傷だらけだ。
下り坂だって油断できない。
うっかり足を滑らせれば、崖下まで転げ落ちて大怪我をしてしまうからだ。

ようやく1ゲームが終わった。
どうやら早さを競うゲームではないらしい。
参加選手は大きく肩で息をしながらお互いの健闘を讃え合っている。
私も膝に手を置いてうなだれ、ハアハア息をはずませている。
そして突然顔をあげて叫んだ!!

「私、もう一回やってみる!!」

エーーッ!?無理だよ!止めときなよ!と、言うまわりのどよめきをもろともせず、私は高らかに宣言するのだ。

「私、なんだかんだ言っても、全力でやってなかった気がする!だから今度は精一杯やってみたい!」

そこで目が覚めてうんざりした。
頑張るのかよ、私・・・。ほんとにバカというかなんというか・・・。
でもやるよな、私なら・・・。

目の前に苦難の壁が立ちふさがったとき、それを避けて通ろうとはしないし、ましてや苦難がなければいいなんて、深いところの私は思ってもいないらしい。
生も根も尽きたという状況で、こんな夢をみる自分の底力に感謝しておこう。

『災い転じて福となす』という。

『なる』のではない、『なす』のだ、ここ重要。
人生は本当にいろいろなことが起きるけれど、その経験を生かして『福となす』も、殺して『災い』のまま刻んでしまうのも自分次第。
私は負けず嫌いだから、自分の人生に負けを刻みたくはない。
だから、これからも、なにがあっても、絶対に自分を不幸にさせない。
それは表面的な災いがなにも起きませんように・・・ということではなくて、どんなことになっても、『転じて福にしてやるぜ』という意味で。

我ながら、相当のバカだと思うがね。
by linket | 2007-04-07 14:49 | ●平熱スピリチュアル | Trackback | Comments(2)
c0007384_18404886.jpg『こころの籠を、静けさで一杯にする。』というのは、詩人の長田弘(おさだ ひろし)さんの『空の下』(『一日の終わりの詩集』:みすず書房より)という詩の中の言葉。
人は独りになることができて初めて、"祈ることができる"と謳う。

今日は『こころの籠を、静けさで一杯にする』日にしよう。
人と会うことは刺激的で、人と関わるからこそ自分を拡げていけるのだけれど、根底に『静かな自分』がいないと、どんどん疲れてくる。
疲れてくるというか、エネルギーがどんどん漏れて、自分がペラッペラになる感じ。
そうなると人の他愛もない言葉にカチンとしたり、身近な人(私の場合はほぼ夫)にねちねちとイチャモンをつけたりしてしまう。

そうなる前に、潔く休むのだ。
そして"祈る"のだ。

祈ると言っても、お経を唱えたり、瞑想したりする必要はないのだと、この詩を知ってうれしくなった。
今日は洗濯をして、掃除をして、食べたいものをちょこっと食べて、余裕があったらスーパー銭湯と花見に行こう。

そんなのが、私の祈り。

静けさに満たされていれば、余分なものを欲しがったりしないから。
余分なものを欲しがらなければ、誰かから奪ったりしないですむから。
誰かから奪ったりしないですめば、なにかと闘わなくて生きていけるから。
by linket | 2007-04-03 18:41 | ●無駄人間になってやる | Trackback | Comments(2)

この地球に生まれてきた訳は、確かな信念を持つために、制約された条件の中でひとつのことに邁進し、思いを具現化させるため


by hami