Frosty Night(逝くなら霜夜に!)

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この地球に生まれてきた訳は、確かな信念を持つために、制約された条件の中でひとつのことに邁進し、思いを具現化させるため

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c0007384_1247564.jpgずっと蕎麦が嫌いだと公言してきた。
蕎麦とうどんのメニューがあれば、絶対うどんを選ぶ。
そんな私が、この間しがらみから蕎麦を食べざるを得ない事態に追い込まれた。
で、いやいや食べ始めたら、意外にそれがおいしいので、改めて『蕎麦は嫌いだ』という理由を見つけてみたのだが、決定的な理由がみつからない。

あれれ?
歳とともに味の好みが変わったのかもしれない。
でも、私は『蕎麦が嫌い』と言うことで、母の味方をしていたことに、そのとき初めて気がついたのだ。

父は無類の蕎麦好きで、小腹が空くと自分で蕎麦掻(そば粉に熱湯を入れて練ったものをしょうゆで食す)を作ったりする人だった。
それに対して母は蕎麦があまり好きではなかったが、蕎麦好きの父のためによく手打ち蕎麦を作っていた。
麗しい夫婦愛のようだが、母は『お母さんは蕎麦なんか好きじゃない』と、まるで呪いを吐くように蕎麦を打っていた。
20歳も年上の明治生まれの父は、母にとっては絶対に服従しなければならない支配者だったからだ。
父はなんにつけかなり強引で、自分の意見は間違っていても曲げなかったので、母が隠れて涙していた姿も、私はよく覚えている。
父が『蕎麦を作れ』と言えば、母の選択肢はそれを作ることしかなかったのだ。

小さな子供はお母さんと常に一緒だ(いや、もちろんお母さん以外の人と一緒の場合もあるだろうが、小さな子供には保護して面倒みてくれる人が必要なので、そういう人を便宜的に『お母さん』と呼んでおく)。
お母さんに見捨てられたら、自分は生きていけない。
だから子供たちは、なんとかしてお母さんの役に立ちたいと思い、自分にできることを探すのだ。

私にとってそれは、『私も蕎麦なんか嫌い!』と口にすることだったのだ。
呪いの蕎麦を打つ母はそれを聞いてほくそ笑み、味方をつけた安心感にちょっぴり嬉しそうな顔をする。
私の言葉一つで、母が嬉しそうにする!
それはなんて甘美な魔法だろうか!?
お母さんには、安らかであってほしいと、幼い子供はいつだって願っているのだ。
そのためには嘘だってつく。
嘘ばっかり言ってるうちに、自分の本心さえ見失ってしまう。
それが子供のやさしさだ。

父のために呪いを吐きながら蕎麦を打ち続けた母は、いつしか蕎麦打ちの名人になった。
父が亡くなってからも、その手打ち蕎麦を恋しがる人たちのために、母は蕎麦を打つ。
でももう呪いを吐いたりはしない。
『お母さんの蕎麦はおいしいって、みんなが喜んでくれるから』
と、ニコニコしながら蕎麦を打つ。
いつの間にか、私が『蕎麦なんか嫌い!』と嘘で味方をしなくても、母は嬉しそうな顔をして蕎麦を打つようになっていたのだ。
私の蕎麦嫌いも返上していいみたいだね。
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by linket | 2006-03-31 12:53 | ●母と仲良くしたいけど | Trackback | Comments(3)

私に逢ひ度くば空を見よ

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生まれて初めて、日本一有名な桜の名所『千鳥ヶ淵の桜』を見ました。
いまさらだけど、こんなに桜がたくさん咲いているところを見たのは初めてで、苦手な人ごみを我慢しなくちゃいけないことを差っぴいても、死ぬ前に一度は見られてよかった!

いや、もちろん、まだまだ死にそうにはないのだけれどね。
一年のうちの短い桜の季節に、雨が降らず、気温がそこそこで、風もあまりなく、さらには体調のよい自分で桜花を愛でることができるのは、実はそうそうできることじゃないのだ。
忙しくしていると、あっという間に桜の時期は過ぎてしまうし、あちこちの名所をめぐりたくても、体は一つしかないんだもの。
ましてやそれが誰かと一緒に見ようということになると、双方またはみんなのタイミングが合うことは本当に難しい。
こんなすばらしい桜を、結局一人でみてしまったことが少し残念で、現場から友人に電話。
「今ねぇ、千鳥ヶ淵にいるんだよ!」
「ブログの写真、楽しみにしてるね。」
私のように、ここにいない誰かに見せたいのだろう、たくさんの人たちがカメラを花に向けて、その見事な一瞬の美しさを切り取っている。

メールなんか送れそうもない(失礼!)おじさんも、携帯を掲げている。
帰ったら奥さんや家族にみせたりするのかな?
奥さんは「まあ、きれいね」と、喜んでくれるだろうか?
(「のんきなもんね、私なんか一日立ちっぱなしのパートでクタクタよ。桜なんか見ている暇なんかありゃしない!」とか言いませんように)
おじさんは「今度一緒に行こうな」と、ちゃんと照れずに言えるだろうか?
(定年になったら妻を旅行に連れていってやろうなんていいわけで、奥さんと関わることを先のばしにしませんように)

『私に逢ひ度くば空を見よ』というのは、昭和19年に戦死した海軍少佐 篠崎眞一氏の妻への遺書の一節。
千鳥ヶ淵から足をのばした靖国神社の入り口に、『今月の遺書(3月)』として、紹介されていた。
もう逢えない人には逢いたくて仕方がないが、毎日逢える人とは喧嘩ばかりしてしまうのはなぜなんだろう?
せっかく縁あって夫婦となって、平和な時代を生きているのだから、仲良くするために努力しよう。
かっこいい遺書を残して死んでしまうより、一緒にいられるうちに桜を見よう。
今年の春が行ってしまわないうちに。


1:靖国神社の裏庭にある日本庭園  2:桜には静かな水面が似合います  3:個人的には桜は『幹』が好き
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by linket | 2006-03-28 16:37 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(3)
c0007384_14433194.jpg愚痴を書こうと思ったけど、
一年のたった一度この時期に咲く花に
失礼だからやめておこう

ユキヤナギが好き
真っ白でかわいらしい花が集まっていて

私にもこんな潔白さのかけらがある
かけらだけどある

たとえかけらでも
あるのとないのじゃ大違いなんだから
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by linket | 2006-03-27 14:43 | ●無駄人間になってやる | Trackback | Comments(0)
c0007384_8201992.jpg着物に興味を持ち始めると、なにを見ても着物まわりの品々に見えてきませんか?
ネックレスが羽織紐に見えたり、ブローチは帯留に、端切れは半襟に・・・というのは基本中の基本で、洗えるシルクのシーツを襦袢に仕立てたら肌触りがいい上に洗えるなとか、このカーテンで作ったらさぞや趣のある帯に仕上がるだろうなど、妄想はつきません。

写真の娘ちゃんが着ている着物は、地味で無難な一つ紋のついた色無地です。
入学式に着物を着たいというリクエストにお応えし、古着市で7,000円で手に入れたものながら、裄と襦袢丈が手持ちの襦袢とドンピシャだったという希少な一品。
娘ちゃんがそのまま白半襟で着ると『旅館の若女将風』になってしまうので、レトロな唐草模様のちりめん布を半襟にしてみたのだけど、まだちょっと淋しい感じ。
と思っていたら、ある日ふと迷い込んだホームセンターのカーテン売り場でカフェカーテンコーナーに並べられていたレースにピンときて、伊達襟代わりにあしらってみましたの。

c0007384_1453644.jpgc0007384_1455364.jpg一見ゴージャスなレースは、60円/10cm。
100cmあればOKなので、総額600円ですのよ、お手ごろ価格でござんしょ。
伊達襟用には、○が連なっている上側(写真左参照)を控え目に出してみましたけれど、もちろんゴージャスな下側を色の濃い半襟に重ねてもかわいいでしょ(写真右参照)。

というわけで、着物好きのみなさん、スカーレットに習ってカーテン売り場に走るべし!ですことよ。
なんでスカーレットかというと、風と共に去りぬのスカーレットが、緑のベルベットカーテンでドレスを作るというシーンがあったような。。。
間違っていたらご指摘を!

風と共に去りぬといえば、この本がキーワードとして出てくるTBSのドラマ『白夜行』は泣きました。
最近はドラマ、あんまりみないんですけどね、久々に、ハマッたドラマでした。
私がボロボロ泣きながら見ていると、たまにみる夫が
「ねえ、この人だれ? どうなってるの? どうしてこうなったの?」
と、質問攻めにするので、
「うるさいっ!! 『この人のためなら死ねるけど、この人のために生きていたい』という気持ちの分からんやつは、見るなっっっっ!!!」
と、毎週私に怒鳴られていた。。。
いや、本当に夫がそんな気持ちがわかる奴じゃなくて、よかったです。
そんな人だったら、家族なんて現実的なことやってられませんもんね。
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by linket | 2006-03-24 08:20 | ●平成お着物デカダンス | Trackback | Comments(8)
お墓って売れるのかな?と知人に聞かれた。
新規事業で墓の販売を手がけたいらしい。
「はぁ、どうなんですかね? とりあえず、今の年寄り達は墓に入りたいと思ってるでしょうから、子ども達もそれを叶えてあげるでしょうね。だから、今ならまだ売れるんじゃないですか? ただ、ゆくゆくは墓に入らなくちゃという人は減っていくと思いますよ。」
「どうして?」
「個人的にはですけど、墓守を子供に押しつけたくないですし、私は宗教的なもののもっていませんから、墓はいらないと思っているんです。だいたい高いし、もったいないですよ。主人も同じような考え方です。この間出た法事でも、60代くらいの方が『自分は墓は作らない』っておっしゃってましたよ。」
「俺は長男だから、入る墓はあるからなぁ。でも、墓を残さないと子供に迷惑じゃない?」
「墓が絶対的に必要なものだという前提があるから、残さないと迷惑になるのであって、墓がなくてもいいんだと思えれば、必要ないですよ。法的に決められているわけじゃないし。」
「骨は墓に入れなくちゃいけないんじゃないの?」
「そんなことないですよ。個人的に自宅で保管しておくことなら問題ないんですよ。骨の形のままどこかに遺棄したら罰せられますけど、粉々にしてしかるべき場所で良識ある撒き方をするなら、散骨(骨と書いてあるが粉にしないとダメ)も現行法では罰せられません(※但し条例はそれぞれなので、もし実行する場合は確認を!)。」

そうなのだ、墓なんて実は必要ないのだ。
海や森に散骨する手伝いをしてくれる業者もあるし、粉にした骨をインテリアやアクセサリーやタイルにしてくれる業者もある。
一年ほど前、友人の父上が亡くなったのを機に、急に葬式や墓に興味が湧いて、自由葬のシンポジウムに参加したことがある(参加者の中ではかなり若い方だったので、会場では浮いていたが)。
パネリストの玄有宗久(げんゆうそうきゅう)さんが、最近は他人の墓に勝手に遺骨を入れる託卵ならぬ『託骨』まであるという話をしていた。
死んでまで、人様の迷惑になるのはやめましょう!
と言っても、迷惑を引き起こしたのは死んだ本人の遺族だったりするわけだが、自分の骨の後始末について、遺族に迷惑をかけるようなことのないようにしたいとその話を聞いて思った次第。
財産も家も名誉も残せそうにないしね、えらそーに墓だけ残す気になれないので、どうか私が死んだら骨は粉々に砕いて、生ゴミに混ぜ、こっそり可燃物の日に出してくださいな。
そんなことで呪ったりはしないので、ご安心を!
私はどんな弔われかたをしようとちゃんと成仏しますのでね。
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by linket | 2006-03-23 09:51 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback(1) | Comments(0)

眠る前のひとときに

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今夜はなにを贈ろうか?
眠る前のひととき
私という灯台からのゆるぎない灯かりにのせて
愛するあなたの元へ
なにを贈ろうか?



  沈丁花のかぐわしき香り
  青空に灯る白木蓮の花々
  薄紅色の花弁を巻き上げる一陣の風
  噴き出すように萌ゆる落葉松の新緑
  涙色に輝く紫陽花の露
  トウモロコシ畑の向こうの七色の虹
  処理場跡を埋め尽くす一面の秋桜
  金木犀の香りのゆかしさ
  黄金色に染まる銀杏並木
  無限の表現力を知らしめる雪の結晶

日本は美しい国です
その昔、遠い国へと引き裂かれた想い人へ
遊女が送った恋文の一節を覚えていますか?

  『御前様の御機嫌よく御暮らしなされ候事
     神掛け祈り参らせ候』

ああ、どうか私の愛するあなたの一日の終わりが
穏やかな春の陽射しのようでありますように
そしてゆっくり眠ったその先の明日が
あなたにとって希望に満ち
挑戦できる未来でありますように

私は神には祈らないけれど
どうかあなたが幸せを知りますように
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by linket | 2006-03-21 23:47 | ●message for you | Trackback | Comments(0)
c0007384_14212.jpgブログ更新が滞っていたのは、知り合いの少年に頼まれたコスプレ衣装を製作していたから。
軽い気持ちで引き受けたのだけれど、なにしろガンダムなんて見てないし、型紙も起こさなきゃいけないので、結構苦労した(T.T)
出来上がりを試着した本人は、もっと細身がよかったとか、足が短く見えるとか、いろいろ注文をつけていたけど、所詮、素人の製作なのでね、細かいことはまあ勘弁してちょうだいな。
製作費の代わりといっちゃなんだが、なりきり写真をブログ掲載させてもらったからね。

なにかと風当たりの強いコスプレイヤーだけど、フラメンコ衣装も着物もある意味でコスプレとなんら変わりはないので、私は彼らのキモさにやや寛容にならざるを得ない。

やりたいことはやってみればいい。
飽きるまでやってみればいい。
飽きたら違う興味のあることも湧いてくるでしょう。

ちなみに、このブログ見て「ぜひ私にも作ってください!」と言われても、引き受けませんので悪しからず。
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by linket | 2006-03-19 14:03 | ●頑張れ若造! | Trackback | Comments(4)

怒るって普通のこと

※但し書き※とある掲示板がまもなく閉鎖になるので、過去の自分のコメントから抹消したくないものを、多少の加筆・修正のうえアップしました。

c0007384_9354069.jpg 感情って本来は自由なハズだよね。
そして今感じている感情は、たとえば「楽しい」と一言で表現できるほど簡単なものじゃない。

もしあなたが怒っているなら、きっと怒っちゃいけないって自分を押さえてきたんだろう。
でもさ、怒りを感じてもいいよね。当たり前だよね。

もちろん、怒りは外に向けるとろくなことにならない。
だからって、怒りを感じることまで許さなかったら、自分の怒りが自分を壊してしまう。
自分が壊れそうになってようやくそのことに気がついて、あなたはいままでため込んできた怒りと対峙しなければならなくなったんだと思う。
それは過去の自分と向き合う実に辛い作業だと思う。
だけど、未来の自分がどんなふうに生きていきたいかを忘れなければ、きっとその亡霊が消えるときはやってくる。

あなたは、自分の中に、天使と悪魔がいると言ったね。
そんなことをしてはいけないという天使の小さな声を無視して、悪魔の言うことをきいてしまい、後でものすごく落ち込むと。
だけど、 悪魔というのは自分の中で解消できなかった感情が表現して欲しくて暴れているだけなんだと思う。
悪魔な自分も許せなければ、全体の自分を好きにはなれないよね。
昔は私も悪魔が出てこないように戦っていたけど、最近は悪魔君と仲良くしているので、悪魔君は暴れないよ。
悪魔君だって、存在を認めて欲しいだけなんだと思うよ。

それから、 あなたに小さな声で正義を語る天使はほんとの天使じゃない。
そいつは気まぐれな常識に縛られた親や(私たちが子供だったころの)大人たちに植え付けられた『ペテン師(ペ天使)』だ!
それはあなたの考え、思考じゃない!
ほんとの天使は悪魔君の後ろに隠れているんだ。
だから悪魔君は暴れるんだよ。
本物天使をあなたに会わせたいから。

私はあなたの本当の天使を知っている。
とても優しくて、愛情深くて、気高い存在だよ。
ペ天使とは手を切って、悪魔君に守られた本当の天使に会いに行こう!
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by linket | 2006-03-18 13:12 | ●鬱は自立の第一歩 | Trackback(1) | Comments(0)
c0007384_1146048.jpg最近、鬱もだいぶ認知度が上がって、テレビやネットでも鬱の話題をよく目にするようになった。
私は自分も鬱経験者として、興味深くそれらをみるが、どうもいつも釈然としないまま後味の悪い思いをしてしまう。

鬱まっさかりの人はたいがいこういう。
『鬱を理解して、私をまるごと受け止めてほしい。』
もっともだ。私もそう思っていた。
理解者がいるのといないのとでは、回復の道のりに大きな違いが出る。
人間関係が著しくせばまる鬱期であれば、その理解者は身近な人間であることが望ましい。
伴侶や、親、兄弟、恋人、友人、それが無理なら専門的なカウンセラーや精神科医、ネットで知り合った鬱仲間などでもいいだろう。

ただね、絶対的に自分を理解してくれる人なんていないのだ。
あなたは自分を理解しているだろうか?
自分のこともわからずに、人が自分のことを理解してくれるだろうと期待するのは、夢想にすぎない。
人間は自分のことさえもわからないあんぽんたんなのである。
他人のことなんかわかるハズがないのだ。
身近な人間との関わりの積み重ねで得た少しの理解と安心感、精神科医の経験と知識、ネットで知り合った鬱仲間の多少の経験の共通項などで、救われることはあるとは思う。
でも、最終的にあなたを救うのは、あなた自身だ。
そこを忘れてしまうと、自分がなにものでもなくなってしまう。
なにかに依存して生きていくのは一見楽だけれど、それじゃ結局はつらくなるだけだ。
世界中が理解してくれなくても、自分だけは自分を見捨てないという気概がないと、あなたはかけがえのないあなた自身を生かしてやることができない。

そうは言っても、自分のことなんか嫌いだよね。
グズで、人のいいなりにしかなれなくて、自信がなくて、素直じゃないし、暗いし、うっとおしいし、いない方がいいんじゃないかと思ったりするし、だけどそれは目を背けようがない自分の一部分だ。
そんな自分と向き合いそうになるたびに、パニックに陥る。
そんなはずはない、悪いのはあいつだ。

あいつが私を大事にしてくれないから、私は頭に来て、感情がコントロールできなくなって、爆発してしまうんだ!!!

本当にそうなの?
もしも噴き出す感情をコントロールしたいなら、それは無理だ。
感情なんてコントロール(抑制)できるもんじゃない。
自分から出るものを、ただ流してやればいいのだ。
出すべきものをため込むから、便秘になって無理がくるのだ。
長年の便秘が辛くしていよいよ解消したいなら、あらゆる手段を試してみなきゃ。
お皿を割ってみたらいい。
大声で怒鳴ってみればいい(だれにも聞かれずにすめばだが)。
紙をビリビリに破いてみたらいい。
空のペットボトルをペチャンコに踏みつぶしてみたらいい。
クッションをバコバコに殴ってみたらいい。
怒りを書き殴ってガスコンロで燃やしてみたらいい。
深呼吸をしたり、写経をしたり、本を読んだり、料理をしたり、掃除をしたり、とにかく考えつく限りの手段をやってみるんだ。
他人がみたら、気が狂ったと怖くなるくらい、ばかばかしく真剣に取り組んでみるんだ。

ただし一人で。
そして、誰も(誰もの中には自分も含むよ)傷つけずに!
自分も含め、愛する人間にそんな破壊的な行為を向けるべきではないから。

自分の感情を大事にしてこなかったのは、多分、自分よりも他人の思いを優先してしまうというあなたの優しさでもあっただろう。
でもそれは、自分の気持ちを顧みることをしなかったことのしっぺ返しでもある。
その積み重ねが、いま、あなたを苦しめているんだ。
悪魔のような『誰か』じゃない。

たまった感情を出すのは破壊的で怖いかもしれないけれど、出し方を工夫して、長年の宿便を出すようなつもりで練習すれば、案外感情の便秘は解消するものですよ。
私も灰皿やタッパー投げて、壊したなぁ・・・。
壁もへこんだし。。。。
だけど今は、自分の幸不幸を人のせいにしなくなったから楽だ。
あなたにもぜひ、こんな楽で楽しい日々が訪れますように。
梅が満開だね♡と、心から笑える日常を取り戻してほしいから。
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by linket | 2006-03-15 10:00 | ●鬱は自立の第一歩 | Trackback(3) | Comments(0)
あなたは母親より、宗教の先生より、病院の先生より、魂年齢の高い人です。
本当はものすごくいろんなことを経験して、いろいろ知っているハズなのに、「私は子供なの」ってフリをしている気がします。
大人の責任を引き受けることは痛いです、辛いです。
でも、そこから必ず解決策を見いだせるのも、大人だからできることなのです。

あなたが子供のフリをしていることに、内心私は怒っていましたが、あなたがそうしているのは自分が甘えたいからではなく、身近な愛する人間を傷つけたくないからなのだとわかりました。
あなたが大人になってしまったら、困る人がいるのですね。
でも、それは表面的なことで、そんな不自然なことを続けていったら、それこそあなたは死んでしまうでしょう。
もちろんそんなことは、あなた自身が一番わかっていることでしょうけれど。

それから遠い昔の怒りの処理という問題に対しても、今回のことは私に解けないパズルのピースをもたらしてくれました。
過去生の体験の中で、あなたはひどく傷ついた。
自分がみんなのために犠牲になったことを、みんなは認めてくれなかった。
認めてくれないどころか、あなたが自分たちにわかりやすい恵みを施してくれなかったからといって罵倒し、さげすみ、無視した。
それは慈悲から行動したあなたの魂を、どんなに傷つけたことでしょう。

でもね、今あなたはその怒りをいいかげん手放したいと思っている。
その怒りは、まわりの人間からされたことに対しての当たり前の反応だったとしても、もう過去のことです。
それを客観的に知るために、あなたは第三者として、その怒りを見る必要があったのでしょう。

あなたのとなりにいるでしょう?
『私はみんなのためにこんなに自分を犠牲にしているのに、誰も私を認めてくれない、愛してくれない。』
と絶望している人たちが。
それは過去のあなたの姿です。
あなたはそれを見たくなかった。
自分の過去の痛みをつきつけられて、苦しくて仕方がないから。

痛みをもたらしているのは、となりにいる人ではなく、あなたの傷ついた魂です。
傷ついた魂を癒すために、天の岩戸に引き籠もることも、自分の物質的な肉体からエネルギーを奪うことも必要だったかもしれません。
でも、もういいですよね?
あなたが幸せになって、困る人がいるのですか?
いままでと違うあなたにとまどう人はいるでしょうけれど、いままでのままで不幸なあなたより、いままでと違っても幸せなあなたを見れば、となりの人の魂も癒されるでしょう。

そうそう、絶食に近いほど食べ物が喉を通らなくなるのも、過去の体験故だったのね、と腑に落ちました。
そうやって肉体を痛めつけることで、悟りを開きたいと願う反面、そうしたらへなちょこな自分をみんなが見捨てるに違いないという畏れがごちゃまぜになっていたのですね。

今日の新聞のリクルートの広告に、こんなコピーがありました。

『強いときの自分より
弱いときの自分のほうが
ほんとの自分なのかもしれない』

そうなのか?
強い自分でずっと生きてきてそれに疲れたとき、ひょこっと顔を出した弱い自分が、『ああ、これが本当の自分だった』と勘違いするのはよくあることです。
でもね、弱いばっかりの自分をなで回していたって、いつかは飽きるものです。
だって、本当は『強いも弱いもひっくるめて、全部愛すべき自分』だから。

ゴチャゴチャの自分の中から、どこをのばして際だたせていきたいですか?
結局はあなたがだれのいいなりにもならず、自分で自分の立ち位置を探し続けていることを、身近な友人として誇りに思います。
どうかその志が、くじけることなく明日へつながっていきますように!
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by linket | 2006-03-06 08:41 | ●鬱は自立の第一歩 | Trackback(1) | Comments(0)

この地球に生まれてきた訳は、確かな信念を持つために、制約された条件の中でひとつのことに邁進し、思いを具現化させるため


by hami