キリスト教徒でもないくせに、今年もまたクリスマスツリーを飾れる幸せ

公団暮らしなくせに、210cmもあるビッグツリー。
今年もまた、無理矢理狭い居間に飾る。
段ボール箱に押し込まれてつぶれていた枝を一本一本のばして形を整え、まずはライトを巻く。
そして、毎年少しずつ集めている大切なオーナメントたちを一個ずつ飾ってゆくのだ。
数時間掛けて、ようやく飾り付けが終了。
子ども達が小さいときは、私が飾りつけているとワサワサと寄ってきて賑やかだったのになぁ、とか懐かしく思い出しつつ、今年は一人でひっそり点灯!
電球の光をうけて、自慢のクリスタルたちがキラキラと輝き出す。
満足してしばらく眺めていたら、泣けてきた。
キリスト教徒でもない私がツリーを飾っても、磔(はりつけ)にされることもなければ火あぶりになることもない。
踏み絵をする必要もないし、冒涜だとののしられることもない。
ただただ、きれいなツリーが大好きで、夕暮れが早くなり、寒さが駆け足でやってくるこの時期に、ほっこりとしたあたたかさが部屋に灯るうれしさを楽しむことを、誰にも文句言われないって、なんてすばらしいことなんだろうか!
どうか、どんな神を信じようが、信じまいが、すべての人の心にも、こんな喜びのともしびがありますように!
私がこっちの世界に残った訳
私は過去に、あっちの世界につながる結構どでかい穴をのぞいてしまい、うっかりあっちの世界に呑み込まれてしまいそうになったことがある。
その穴は今も開いている。
無理してふさいだわけではないのだ。
いまこうしているここにも、その穴は存在する。
それでも体力も気力もあるいまは、もうそこに呑み込まれたいとは思わなくなった。
あっちの世界をよくのぞく(もちろんこれは人によって見えるもの、感じるものは違うと思うが)。
くるくる変わる万華鏡みたい。
きれいで、魅惑的で目が回りそう。
でも自分の心もちによっては、とてつもなく暗くて怖い(そっちの方が妙に親しく思えたりする場合もある)。
いつかはあっちに行く。
それなら急ぐ必要はない。
いまはこっちでできることに心を尽くしていこう。
死ぬより生きるほうが尊いわけではない。
生きるより死ぬほうが尊いわけでもない。
だれかがこっちを選ぼうが、あっちを選ぼうがそれは自由だ。
私はこっちを選んだ。
きっと、スイカがおいしいからだ。

きっと、猫がかわいいからだ。
きっと、桜が美しいからだ。
きっと、娘の笑顔がみたいからだ。
きっと、息子のピアノがききたいからだ。
きっと、友人とのおしゃべりが楽しいからだ。
きっと、あなたの哀しみがいとおしいからだ。
こっちの世界にとどまるために、十分な理由なんて、そんな程度の些細なこと。
お母さん、笑ってよ。
やたらと愚痴っぽく、なにを言っても私の言葉尻をとらえて文句ばっかり言うのでうざったくなり、話の流れから
「小さい頃、怒られないかどうかお母さんの顔色うかがってばっかりで、イヤだったな。」
と少し拗ねて言ったら、激情した母に、
「忙しかったんだもの! 子育てなんかやってるヒマなんかありゃしなかった!」
と、吐き捨てられた。
母は『忙しくて子どもに我慢ばかりさせてかわいそうだった』と思うよりも、『忙しい私を誰も助けてくれなかった』と今でも思っているのだと、妙に腑に落ちて悲しかった。
母の孤独の淵は絶望的に暗く、歳をとるごとにその淵に引きずり込まれていく母が悲しくてたまらなかったのだ。
特別老人養護施設で働く友人から『人は生きてきたように老いたり、呆けたりしていく』という話を聞いたことがある。
楽しく生きてきた人は、呆けても愛嬌があって穏やかだけれど、我慢してきた人が呆けると、疑り深く怒りっぽくなるのだと言う。
母が呆けたら、きっと仁王のようになるのではないかと思って、呆ける前になんとか少しは軌道修正をしたいものだと願う娘であった。
もっとも、鬱をやってからすっかり記憶力や気力の落ちた私なんかより、母は元気でパワー溢れるババアなので、そう心配はないかもしれないが。
昨日電話したときには、車の運転の話になった。
母は今でも毎日車の運転をする。
心配性の長姉などは、年老いた母に車の運転をやめてもらいたいようだが、母から運転を取り上げたら、それこそ呆けかねない。
孫を学校に送ったり、買い物につきあったり、文句を言いながらも孫に当てにされるのが嬉しいらしい。
「よかったよね。お母さんが教習所に行くのを、泣きながら我慢した私の苦労の甲斐もあったってもんだね。」
と、ふざけて言ったら、
「そうだね。」
と、母が笑った。
母が運転免許を採ったのは、私が幼稚園に行く前だった。
母に置いて行かれるのを嫌がって、スーパーカブ(50ccのバイク)の後ろにぶら下がって泣き叫ぶ私を祖父母に預け、母は教習所に通っていたのだ。
それでもあまりに私が頑固で祖父母も手を焼いたらしく、何度か一緒に教習所に連れて行ってもらったことがある。
「お母さんが教習路をグルって回ってくると手を振っていたの覚えているよ。」
と私は言った。
母はそんな私に、笑って手を振り返してくれた。
隣に乗っていた教官が、苦笑しながら母をたしなめて、母が小さくすいませんと頭を下げる。
そんな一コマを私はよく覚えている。
35年も前の、田舎の教習所だからこそ許された、母の笑顔だった。
ものごとには、いいことと嫌なことがゴチャゴチャに張り付いている。
毎日毎日、母が出かけるたびに泣き叫んで、置いて行かれることに抗議した私なのに、たった数回の、車を運転する母に手を振った思い出の方が印象強く、その一連の出来事を肯定的なできごとへと変換してしまう。
運転免許を採ったら、夫に頼まなくても一人でどこにでも行ける。
それは、なんでも自分でやらないと気がすまない母にとって、とても大きな希望だったのだろう。
だから母は、私がどんなに泣き叫ぼうが教習所に通い続け、車に乗っているときは、あんなに楽しそうで、一周回ってくるのをジッと待っている娘の私に、笑って手を振る余裕があったのだと思う。
お母さんの残りの人生にも、希望がありますように。
だれもあなたをいいように使って楽しているわけないし、だれもあなたを犠牲にして平気でいるわけでもないよ。
あなたが、自分の希望を見いだして、ひたむきにそれに打ち込み、笑顔を見せることがこの先にもありますように。
そんな風に生きられるなら、長生きするのもまんざらじゃないと、私たちが思えるような老後を送ってくださいね。
半襟を手作りしたらあんまりかわいいのでup! 写真いまいちだったけど・・・

ステンシルだから、実用性はどうなの?
色落ちしない?
着物に色移りしたらイヤなんだけど・・・・
てか、半襟かわいいけど、
これに何を合わせればいいの?

と悩みつつも、あんまりかわいいので色違いまで作ってしまった。
ヒイラギと赤い実でクリスマスバージョンとか、モミジとドングリで秋シリーズとか、妄想はふくらむのだった。
着物は小物がたくさんあってどれも魅惑的だけれど、私はなぜか半襟が異様に好き。
そういえば、ネクタイも好きなんだよね。
ネクタイの柄っていろいろあるし、絹物だし、これならリメイクしたら素敵な半襟になるかも!
とひらめいて、どーでもいいネクタイをひとつ分解してみたけど、微妙に必要サイズが取りにくいので挫折したこともあり。
半襟は自分で作れそうなところも魅力のひとつ。
小さいしね、すぐできるのも嬉しい。
半襟は『白』って思ってきたんだけど、歳とともに、真っ白な半襟は顔写りがよくないことを発見してしまった。
なので、最近は色柄ものの半襟にLove!!
ぼちぼちと手作りしてご紹介していこうと思いますので、お楽しみに!
伝説の『赤いは○○きん』
今年も残すところあと3ヶ月弱。
なんか忙しいわぁ。。。
今朝、駅前を歩いていたら、
「赤い羽根共同募金にご協力お願いしま~す!」
という声が。
う~ん、高校生が一生懸命声を張り上げているならともかく、おばさんに募金入れるとなんとなく『ありがとうございます』がねっとりしていると思うのは私だけ?
それにご丁寧に襟元に赤い羽根をつけてくれたりするのがうっとおしいし、だいたい先週自治会で『1軒の目安は350円』って、集金されたばっかりだからごめんね、と目を伏せて通り過ぎる。
実は目を伏せて通りすぎたのには、もうひとつ理由がある。
「赤い羽根募金」って聞くと、笑ってしまうのだ。
なぜかというと、息子が小学校低学年のころに、連絡帳に
赤いはげばきん
と書いてきたことがあったからだ。
もともと国語が苦手の彼。
漢字テストの 「けいざい」 という問題に、 『K材』 と本気で書くつわものなのだ。
それにしたって、『はげばきん』ってなんだろ!?
いまだに、この季節になると笑ってしまう。
きっと一生、赤い羽根募金がめぐってくる限り、笑ってしまうんだろうな。
そして孫とか生まれたら、絶対『赤いはげばきん』の話をするので、いつかそれは伝説となっていくかもしれないわ。
ささやかな、でもあたたかい家族の物語の1ページとして。
孫ができたとき、娘が「サンタの連絡先教えて!」と言ってこないか心配
別に信心深くもないのに、我が家の子供たちにもサンタクロースはやってきた。
マンションの窓の鍵が開いていなかったときは、ベランダにプレゼントが置いてあったりと、芸の細かいサンタさんだったわ。
息子が小学校4年のときに、
「本物を見たことないからサンタなんかいないって、みんなが言ってる」
と不審がられたが、
「え~っ! どうして? テレビのニュースにたくさん出てるじゃない。だいたい本物を見たことがなければ実在しないなら、スペースシャトルはウソなの? アメリカって国はないの?」
と言いくるめた。
5年生のときは、
「担任の先生が、『まさか5年生にもなってサンタクロースを信じてる人はいないよね』って言った」
とさらにサンタ存亡の危機がやってきた。
「なんですって!今日の新聞を見なさい!」
私はその日の朝日新聞埼玉版を突きつける。
そこにはフィンランド政府公認のサンタクロース財団に認定された『本物のサンタクロース』が、川越市役所を表敬訪問したという記事が写真入りで載せられていたからだ。
(きっとああいう方が『サンタのプロ』なのね)。
さすがにこの新聞記事はインパクトがあったらしく、それ以降、息子の追及はないまま、小学校を無事に終えた。
そう、サンタさんは、中学生にはこないのだ。
「宮崎アニメの『魔女の宅急便』の主人公キキは、13歳のとき独り立ちするでしょ。今の時代にはそぐわないけど、13歳からはもう大人扱いなの。電車に乗るのも大人料金になるでしょ。だからね、中学生になったらもうサンタクロースはこないんだよ。」
と、どこまでも抜け目のない大ボラをつき続ける母なのであった。
この間、高校生となった息子とテレビを見ていたら、サンタクロースは本当はいないという話が出てきた。
「まさか、未だに信じてないよね。」
と私(やや、おそるおそる・・・)。
「まさか!」
「でもさ、おねーちゃんはどうなんだろう? 話したことある?」
「ないよ。」
「もしかして孫が生まれたときにさ、私に『サンタクロースの連絡先教えて~』とかいってこないかな?」
「あり得るかも・・・」
のんきで素直な娘よ。
プロのサンタクロースは確かにいるが、トナカイのそりで空を飛び、世界中の子供たちにプレゼントを配ってくれるサンタクロースはいないのだよ。
ただね、子供にはファンタジーが必要なのさ。
君は嘘がヘタクソだから、孫を言いくるめる役なら引き受けてあげるからね。