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Frosty Night(逝くなら霜夜に!)

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この地球に生まれてきた訳は、確かな信念を持つために、制約された条件の中でひとつのことに邁進し、思いを具現化させるため

カテゴリ:●メメントモリ(死に支度)( 18 )

お墓って売れるのかな?と知人に聞かれた。
新規事業で墓の販売を手がけたいらしい。
「はぁ、どうなんですかね? とりあえず、今の年寄り達は墓に入りたいと思ってるでしょうから、子ども達もそれを叶えてあげるでしょうね。だから、今ならまだ売れるんじゃないですか? ただ、ゆくゆくは墓に入らなくちゃという人は減っていくと思いますよ。」
「どうして?」
「個人的にはですけど、墓守を子供に押しつけたくないですし、私は宗教的なもののもっていませんから、墓はいらないと思っているんです。だいたい高いし、もったいないですよ。主人も同じような考え方です。この間出た法事でも、60代くらいの方が『自分は墓は作らない』っておっしゃってましたよ。」
「俺は長男だから、入る墓はあるからなぁ。でも、墓を残さないと子供に迷惑じゃない?」
「墓が絶対的に必要なものだという前提があるから、残さないと迷惑になるのであって、墓がなくてもいいんだと思えれば、必要ないですよ。法的に決められているわけじゃないし。」
「骨は墓に入れなくちゃいけないんじゃないの?」
「そんなことないですよ。個人的に自宅で保管しておくことなら問題ないんですよ。骨の形のままどこかに遺棄したら罰せられますけど、粉々にしてしかるべき場所で良識ある撒き方をするなら、散骨(骨と書いてあるが粉にしないとダメ)も現行法では罰せられません(※但し条例はそれぞれなので、もし実行する場合は確認を!)。」

そうなのだ、墓なんて実は必要ないのだ。
海や森に散骨する手伝いをしてくれる業者もあるし、粉にした骨をインテリアやアクセサリーやタイルにしてくれる業者もある。
一年ほど前、友人の父上が亡くなったのを機に、急に葬式や墓に興味が湧いて、自由葬のシンポジウムに参加したことがある(参加者の中ではかなり若い方だったので、会場では浮いていたが)。
パネリストの玄有宗久(げんゆうそうきゅう)さんが、最近は他人の墓に勝手に遺骨を入れる託卵ならぬ『託骨』まであるという話をしていた。
死んでまで、人様の迷惑になるのはやめましょう!
と言っても、迷惑を引き起こしたのは死んだ本人の遺族だったりするわけだが、自分の骨の後始末について、遺族に迷惑をかけるようなことのないようにしたいとその話を聞いて思った次第。
財産も家も名誉も残せそうにないしね、えらそーに墓だけ残す気になれないので、どうか私が死んだら骨は粉々に砕いて、生ゴミに混ぜ、こっそり可燃物の日に出してくださいな。
そんなことで呪ったりはしないので、ご安心を!
私はどんな弔われかたをしようとちゃんと成仏しますのでね。
by linket | 2006-03-23 09:51 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback(1) | Comments(0)
元日の朝から、電話が鳴った。
電話は実家の兄からで、長姉のお姑さんが亡くなったとのこと。
86歳だったそうだ。

そのあとポストから届いたばかりの年賀状を取ってきた。
めくっていくと、筆で手書きされた長姉の年賀状の最後の1行にこんなひと言が。

先のことはわかりませんね。

ほんとにそうですね、お姉様。

ところで、さっき夫が部屋の隅に誰かいたよ、と言う。
「着物着た人が座ってて、立ってすぐにどっかにいっちゃったけど。」
「どんな着物?」
「薄い色の花柄で、帯が紫っぽいの。」
「姉のお姑さんが挨拶に来てくれたんじゃないの? 律儀な人だったから。」
「でもおばーさんじゃなかったよ。」
「霊だから、若いころに戻ったんじゃないの?」

もうお会いしたのは何十年も前になってしまうけれど、俳句が好きで、おしゃれなお姑さんだった。
嫁として一緒に暮らしていた姉はときどきは愚痴り、次男の嫁の私に、
「同居していない人に、同居の苦労はわからないわよ。」
などと言ったりもしていたので、決して波風なかったわけではないと思うが、それも含めて一人の人が亡くなったことの厳粛さと尊さが心に染みる。

ご心配なこと、心残りなこともあるでしょう。
でも、残ったものたちは大丈夫です。
安心して天国に行って下さいね。

合掌
by linket | 2006-01-01 17:38 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(0)

ようやく秋深し・・・

c0007384_13191486.jpg遅かった紅葉が、ようやくきれいな色になった。
育った地域にイチョウの樹はなかったので、未だにこの黄金色の立ち木の前では、あったことのない異星人に見惚れてしまったような気分になる。
昭和通沿いの小さな公園は、排気ガスもひどかろうに、こんな見事な姿を惜しげもなく披露してくれる。

ありがとう。

来年の春まで、忘れないでおくよ。

桜の季節もそうなんだけど、紅葉の季節になると、
あと何回、この季節にめぐり合うことができるだろう・・・とつい考えてしまう。

それは永遠ではなく、一万回という莫大な回数でもなく、本当にあと数十回なのだ。
たとえば私が120歳まで生きるとしても、あと80回。
平均的なことで言えば、あと40回程度というわずかさ。

そんなことがわかっていて、わかりきっていて、つい日々の生活を昨日から明日へつづく限りない退屈な繰り返しなんて思ってしまう。

そんなエンドレスな日常を切り裂くように、ドカンと桜が咲いて、ガツンとイチョウは色づく。
いつも同じ景色で、同じ空気で、同じ花が咲いているような場所だったら、きっとすぐに飽きてしまうんだろうな。

四季のある国に住んでいることが、私はうれしい。
さまざまな考えをする人がいることが、私には興味深い。
みんなそれぞれが異なっていることを、ゴックンと飲み込めるような自分でいたい。
by linket | 2005-12-13 13:22 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(0)

今日は父の命日

17歳の12月5日は、日曜日だった。
まだ学校が週休二日制ではなく、その日曜日をはさんで、金・土・月・火が高校の期末テストだった。
家から高校が遠いため下宿生活をしてした私は、普通なら週末は家に帰るのだが、その週末はテスト勉強のために下宿に残っていた。
携帯電話などない時代。
部屋にいた私に、下宿屋のおばあさんが、お兄さんから電話がきているよ、と呼びにきた。
電話に出ると、「お父さんが危ないから、早く帰ってこい」と兄。
急いで家に帰る仕度をしている間に、もう一度兄から電話がきて、父が死んだことを知らされた。

54歳違いの父は、71歳だった。
ものごころついたときから、父は体の弱いおじいさんで入退院を繰り返してたから、父が死んだのは仕方のないことだと思っていた。
あれから20年以上が経って、ああ、父は早世だったのだと思い知る。

今日が命日。
でも墓参りはしない。
だってお墓になんか、父はいない気がするし。
父が生きていたことの名残を、御影石に置き換えないと忘れてしまう人だけが墓参りにいけばいいのだ。
私はいつだって父のことを思い出し、父のために祈って、父に助けられているような気でいるから、わざわざ墓参りに行って、
「お父さん、会いにきましたよ」
なんて、そらぞらしくて言う気にならないから。
by linket | 2005-12-05 08:08 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(0)
c0007384_10502487.jpg近所のSEIYUで靴下をみてたら、20代後半くらいの女子が近づいてきて、
「すいません・・・あのレジに置いてあるバッグ・・・」
と切り出す。
あ、あの私、店員じゃないんですけど?
「お通夜に持って行ってもいいでしょうか?」
あー、そういうことね。
最近、合理化のあおりか、店員少ないよね、SEIYU。
レジ係はバイトの若い兄ちゃんだし、きっと一応彼に聞いたら
「どうなんですかね?」
とか言われてしまったのだろう。
お姉さん、声掛けたのが私でラッキーだったね。
こう見えて、私、葬式参列回数じゃ、同年代の平均を軽く上回っている達人(?)なのよ。
どれどれ・・・。
レジの上に乗っているのはシンプルな黒の小さめトートバッグ風。
「大丈夫。ほんとはもう少しツヤがない方がいいのかもしれないけど、ピカピカしてないし、これなら普段にも使えるからいいんじゃない?」
「よかった。」
「平気、平気、結構みんないいかげんだから!」
太鼓判だね!!

きっと通夜に参列するのなんて初めてなんだろうな。
マナー本を見ればあれこれ小うるさいことが書いてあってうんざりだし、さりとて恥はかきたくないし。
初心者ほど、隙のないガチガチな格好をしがち。
私もそうだったけど、実際参列してみると、みんないいかげんなので、脱力だよ。

バッグや靴はピカピカもキラキラもあり(派手なのは慎もうね)だし、ファーやクロコダイル(殺生したものを身につけてはダメよ)も一人や二人はいるし、なんだよ、こんなんでOKなわけ?
まあ、みんな自分が場慣れしてないところにいることだけでいっぱいいっぱいで、他人のことなんかそんなにみてないから、そんなに緊張するほどのこともなかったのよね。

ほんとはマナーより、心で参列したいものです。
私は、魂の存在はあるような気がするので、肉体が滅びることに関して、絶望感というものがない。
父を17歳のときに亡くしたけれど、父の思い出の一切合切や、父の存在感が失われたわけではないことの実感があるので、余計にそう思うのかもしれない。
大切な人は、たとえ形がなくなっても、大切な人のままです。
別に父の霊と交信したりしたわけではないのに、やっぱりいまでも父の存在というものが私の身近にはあって、私の考えの幅を広げてくれたりしているわけです。

人が死ぬことは仕方のないことで、今の科学では永遠に生きることを実現した人はいないよね。
病気や事故や、本当に若くして亡くなってしまった人の話を聞くと心が痛むし、もしもそれが自分の夫や子どもや友人だったりしたらどんなに辛いだろうと思うけれど、だからって、人の死に絶望を重ねることはなかったんだよね。
だって私は今を生きていて、愛する人と関わっていて、それはいつか終わりのくることだけれど、つづいていくことだから。
死というできごとを深刻に考えすぎると、今に心を尽くすことを見逃してしまう。
ああ、うまく言えないな。
このつづきまたいつか。。。。
by linket | 2005-11-06 11:44 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(2)
「渡さない!」貴親方が前言撤回、若と遺骨バトル
今日は友達に借りたDVDで「世界の中心で愛を叫ぶ」を観た。
こ、これは平井堅の「瞳をとじて」の壮大なプロモーションビデオですか?
まぁ、それはおいといて、白血病で死んだ昔の彼女の遺灰をオーストラリアの風にまいていたのが、実に気になる。

骨、そんなに大事ですか?

個人的には、骨は骨としか思えない。
もしも肉体が死んでも私を構成するなにかが残っていると家族が思ってくれるなら、骨なんかより空想でもいいから魂とか星とか風とか、それが無理ならせめて遺影の中に、私のかけらを探してほしい。
骨はやめようよ。だいいち美しくないし。生々しすぎだよ。

だいたいね、大事にしたいなら、生きてるうちにやろうよ。
あたたかい手を重ねて、愛してるって伝えようよ。
たとえこの肉体がいつか朽ち果てようとも、
たとえこの愛が未来永劫つづかないとしても、
いまここにある想いを出し惜しみするなんてもったいないよ。
そんなもったいないことしてるから、伝えられなくなったとき、後悔しまくりで骨に執着しちゃうんじゃないのかな?

そもそも、骨なんか残すから騒動のもとだと私は思う。
聞くところによると、最近は遺骨の始末に困って電車に忘れたふりしてしらばっくれたり、他人のお墓に勝手に入れちゃったりする人もいるそうだ。
遺骨をそんなふうにされた場合、元の持ち主(つまり死んだ人)は成仏できなかったりするんだろうか?
そんなこと考えると、この世が成仏できない霊魂ばっかりでうまってしまいそうなので、私はどんな死に方をしても、どんな弔い方をされても、成仏できるって信じたい。
本物の神様や仏様なら、そんな迷える人こそ救って下さるはずでしょう?

骨はお墓に入れなければならないと思っている人が多いけど、実はそうでもないんですね。
お墓に入れずにずっと側に置いておいてもいいし、粉状にして『節度をもって』まくなら、散骨できる場所もある。
自分の私有地であれば、そこに散骨してもOK。
庭にお父さんの遺灰をまいてもいいわけです。
だからって、オーストラリアの大地(それもアボリジニ人の聖地)にわざわざ遺灰をまくのはどうなんだろう?
たとえばね、あなたの家の庭がすごくきれいで、知らない人がやってきて
「死んだ母はお宅の庭が大好きだったので、ここに母の遺灰をまかせていただきました」
って言われたらどうよ?
そりゃ、ないでしょう!

というわけで、おそらく私の骨を始末してくれる子ども達へ
一生貸家暮らしなのに、墓だけ買うのも私たちらしくないし、骨は遺灰にして適当に(ただし合法的に)始末してくれればそれでいいです。
私はちゃんと成仏しますので、ご安心くださいませ。
くれぐれも私が行きたがっていたイギリスのキュー植物園とかに遺灰をまくようなことはしないように!
私は生きたように死んでいくことを本望だと思っているので、そんな自己満足なことをして、大好きなキュー植物園にご迷惑かけるようなことをしてほしくはありません。
それより費用と時間を使うなら、自分たちが行きたいところに行きなさい。
生きているうちに。
そうじゃないと、今度はあなたの子どもがあなたの想いを遂げるために、宇宙とかに行って遺灰をまくハメになるからね。
by linket | 2005-06-14 12:54 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback(1) | Comments(8)
おとうさんしむの?
父が亡くなったのは、私が17歳のときだった。
54歳も年が違い、知らない人からはよく「お孫さんですか?」と聞かれた。
身体も弱く、入院ばかりしていたので、父が71歳で死んだときも慟哭のような気持ちはなくて「まっ、しょうがないか。歳だし」と思っていた気がする。
もちろん、いつもいた人がいないことの淋しさやせつなさは、二十数年たった今でもなくなることはないけれど。

息子が小学校一年生のとき、担任の先生が癌で急に亡くなった。
まだ40歳くらいで、一学期の終業式には「夏休みが終わったら、また会いましょう!」と言っていたのに、二学期の始業式が始まるほんの数日前に帰らぬ人となった。
その訃報を連絡網で回してきた同級生のお母さんは
「子どもになんて言って伝えたらいいの!?」
と言って、電話口で号泣した。
私よりも年上なのに、人の死に慣れていないそのお母さんに私は同情した。
ほとんどの人が宗教を持たない私たち以降の世代は、人の死を受け入れていくために新しい切り口を見つけなければならないだろう。

死んだらどうなるか、なんて知らない。
魂があるのかも、天国があるのかも証明はできない。
でもファンタジーでもいいから、父の魂があって、天国から私たちを見守ってくれている、と私は信じたい。
誰にも相談できずに苦しいとき、「お父さんだったら、どうする?」と、ふと聞いてみたくなる。
「きっと、こうしろって言っただろうね」と答えをもらった気になる。
その答えは、私がねつ造したものだ。
でも父と関わっていたからこそ、ねつ造できた答えでもある。
父が私と生きていたことは、彼が死んでしまった今でも影響力を持ち、消してしまえない事実なのだ。

そして私もいつかは死んでしまう。
私だけではなく、生まれてきた人はいずれ死ぬ。
絶対にそこから逃れることはできない。

だから私は生きるのだ。
今日を生きるのだ。
好きな人には「好きだよ」と伝えるのだ。
面倒だなと思いつつ、家族のためにご飯を作るのだ。
うっかり感情的になって子どもを怒ってしまったら、取り返しがつかなくなる前に謝るのだ。
毎月毎月、支払いに追われてうんざりしても、投げたりせずに生活していくのだ。

 お母さんはいつか死んでしまうけれど
 あなたたちと過ごせて本当に楽しかった
 死んでも必ず天国から見守っているし
 ときどきは風になったり、花になったりして
 遊びにくるよ

これを書いていたら、外で鳥が鳴いた。
父が遊びにきたのかもしれない。
by linket | 2005-05-01 11:09 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(2)

墓なんかいらないよ

私は今年で40歳。
平均寿命の半分で自分の死や葬送、墓のことを考えるのは早すぎるのかもしれないけれど、いつ訪れるかわからない自分の死に際して、それを商業化されたるのは嫌だ! という思いが強い。
とにかく私は慎ましく生きてきたのだ。
自分に必要なものさえ手に入ればそれでいい。
墓はいらないんだよ。
高いし、狭いし、環境によくないし、なにより美しくないし。

昨年父の二十三回忌で兄弟が集まった際、姉に「私は墓は作らないつもりなんだ」と初めて話題にしてみたのだが、「そんなことできるわけないじゃない!」と一蹴された。
田舎で育ち、同じ町内に嫁に行った姉には、墓に入る以外の選択があることなど考えもしていないのだろう。
私も姉と同じ立場だったら、近所の知り合いがたくさん眠る共同墓地に自分が埋葬されることになんの疑いも持たなかっただろうが、私は仕事先で知り合った夫(次男)と結婚し、埼玉県の公団に住まう身だ。
この地に深い思い出があるわけではなく、さりとてどこかに憧れの地があるわけでもなく、たまたまここで子どもを生み育て、子ども達はやがてここから巣立っていく。
たとえば子ども達が遠い場所で暮らすようになったときに、私の墓を思い出すよりも、私と生きて関わった思い出そのものを思い出して欲しい。
いや、「思い出して欲しい」というか嫌でも「思い出してしまう」くらい、生きているうちに深く関わってやろうと思うのだ。

私は17歳で父を亡くしたが、22年以上経った今でも、父のことを思い出さない日はない。
まあ、忘れるに忘れられないインパクトのある人だったわけだが、年に一度行くか行かないかの墓参りよりも、私にとっては自分の生活のリズムの中に息づいている父を思い出すひとときの方が、はるかに『供養』と呼ぶにふさわしい行為として根付いている。

父を思い出すとき、私は自分の右上あたりに父の気配を感じる。
それは勝手に私が作り上げた想像の産物かもしれないが、こうして父を思い出しながらこれを書いている今も、やわらかな父の笑顔をエネルギー化したようなあたたかさが私に降りそそいでいる。

私が死んだ後、私と生きて関わった人たちもこんなふうに私を思い出してくれるといいな。
バカバカしいほど高い墓石や、信じてもいない宗教の決まり事なんかに縛られて義務的に思い出してもらっても、全然嬉しくないんだよね。
だからさ、なんどもいうけど墓石はいらないよ。
by linket | 2005-04-16 16:21 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(6)

この地球に生まれてきた訳は、確かな信念を持つために、制約された条件の中でひとつのことに邁進し、思いを具現化させるため


by hami