電柱の景色に愛を見る

街を歩けばみんな我先に人を蹴散らし、怒鳴り散らし、不機嫌を振りまいているばっかりだ。
鬱を経験してから、あんまり人と関わりたくなくなった。
家族と、ほんのひとにぎりの親しい友達。
その小さな世界を、幸せで、仲良くできれるよう、それだけで私はもう精一杯だ。
今度生まれてきたら、チベットの僧になりたいなどと思ったことがある。
祈りに人生を捧げ、自分がそうすることを他人が応援し、認めてくれる。
そして真摯に祈りの人生を全うできるなら、どんなにいいだろうと。
けれど次の瞬間、私はこの混沌とした世界の中でも、祈り続けられる強さが欲しくて、こんな状況に生まれてきたのではないかと気がついて、愕然とする。
そうだった。
静かに、俗世間と離れた僧院で、祈ることだけが祈りではなかったのだ。
家族においしいご飯をつくること。
住んでいる場所をこぎれいに保つこと。
限られた金額でやりくりしながら生活していくこと。
いやなことや辛いこと、うまくいかないことがつづいても、あきらめないで生きていくこと。
そういうことのすべてが祈りになる。
だれかのせいにしたり、依存したり、悪口をいったり、こびたり、言葉の裏を読んだり、自分をよく見せようと画策したり、そんなことをしないですむように。
笑おう。
歌おう。
それが私の祈りだから。
娘が描いた電柱の絵を、部屋に飾った。
乱立する電柱の絵なのに、見ていると涙が出てくる。
こんな不調和の景色の中にさえ、彼女は陽の光のあたたかさを感じ取る。
ああ、そうだね。
この世は美しいことばかりではないかもしれないけれど、だからといって愛を失ってしまったわけでもないのだよね。
こんなきれいな表現ができることを押さえ込まなくてよい職業につけることを、心から祈っています。
春からその方面の専門学校生です。
美大に行かなくてよいのか悩みましたが、彼女が選んだ道が結局は彼女のための近道なのだと、信用して応援できる親でありたいです。

娘を見てると、努力というのは我慢してするものではなくて、楽しくて楽しくて、そうせずにはいられなくてするものなのだと知りました。
応援ありがとうございます。娘も喜んでいます。
思わずコメントを残したくなる、素敵な絵だったもので・・・。
朝の通勤時の人ごみで舌打ちをしている人に悲しくなりながらも、
その気持ちを私も確かに持っていることに改めて愕然とした朝でしたもので、この絵に救われた思いです。
私はこの絵は夕日だと思ったのですが、娘は朝日をイメージして描いたそうです。なので、東の壁に飾りました。
自分の中に、舌打ちしてしまう気持ちがあるのは当たり前です、人間だもの(○田み○を風)。
でも朝日の温かさを感じる自分を封じこめないように、それを忘れないようにしようと毎朝思い出させてくれる絵です。
自分の知らない大人の方からコメントをいくつもいただいて、娘はテレテレしていました。
この小さなまともに生きていこうとする命の、応援をしていただいてtakakozuno様、chunse様、本当に重ねてありがとうございます。