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Frosty Night(逝くなら霜夜に!)

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この地球に生まれてきた訳は、確かな信念を持つために、制約された条件の中でひとつのことに邁進し、思いを具現化させるため

『無力こそ絆』田口ランディさんの講演会より

c0007384_19554476.jpg12月13日(土)、田口ランディさんが講演した高野山スピリチュアルケアセミナーの第四回に行ってきた。
スピリチュアルって言葉は、江原啓之さんが使い始めたときはそれほどでもなかったけど、なんかもうあちこちでいいように使われているうちに、手垢つきまくりのインチキ商売てんこ盛りな匂いがプンプンになってしまって残念だ。
まあ、そんなわけで『スピリチュアルケアセミナー』なるものにも眉唾なイメージをもってしまうわけだが、私はずっと『看取り』に興味があって、エリザベス・キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間—死とその過程について』(中央公論新社)なども読んでいたので、ランディさんがエリザベス・キューブラー・ロスについての話をするならぜひ聞きたい!と思って、重い腰を上げたのだ(基本的に出不精で、慣れないことは敬遠しがちなのに)。

当日、パンフレットと共に受け取ったアンケートを、講演前の空き時間に記入し始める。

 男か女か? 年代は? どこで知ったか? 受講したきっかけは? ・・・・・
『スピリチュアルケアに関する資格があれば、取得を目指したいですか?』


という項目で、ハタと手が止まる。
スピリチュアルケアの資格取得を目指す人は、やはり医療関係の人が多いのだろうか?
あるいは宗教的な支えをお持ちの方で、奉仕活動に活用とか?
資格があるとどんな場面で有利なのだろうか?
普通免許以外なんの資格もない私は、一瞬、この興味深い資格取得に憧れを抱いたのだが、取ったからと言って仕事にするつもりもないでしょ?と、自らツッコミ。

私はただ、近しい人が死にゆくときに、当たり前に側にいたいだけなのだ。
愛する人がこの世からいなくなってしまう日のことなんか考えたくはないのだが、死に逝く人の側に当たり前にいるってことは、そうそう簡単にできることではない。
だから、そういう時でも崩れたりしない自分を、今から準備をしておきたいと思う。

私のバイブルともいうべき『チベットの生と死の書』(ソギャル・リンポチェ著:講談社)の中で、「死にゆく人とともにあるために」という章に、次のような下りがある。

 自分を買いかぶらないこと。
 死にゆく人に奇跡を起こしてやろうなどと思わないこと。
 「救って」やろうなどと思わないこと。
 そんなことをしても失望するだけなのだから。
 (中略)
 何かの達人でなくてならないなどと思わないこと。
 ただ自然でいなさい。


死にゆく人のかたわらで、ただ自然にしていること。
それがどんなに難しいことで、でも大切なことか、私は父の死から学んでいる。
まだ高校生だった私は、そのとき『17歳で父を亡くす不憫な末っ子』として扱われ、父の死から遠いところにいさせられた。
それは優しい大人たちの配慮だったが、蚊帳の外に出され、父になにもしてあげられなかったことに、私はとても怒っていたのだと、今になると思う。

人が死ぬということは、もう愛する人と関われないということだ。
見つめ合うこともできない。
手を握ることもできない。
一緒に笑ったり、泣いたり、テレビを見たり、買い物に行ったり、ご飯を食べたり、旅行に行ったり、同じ空を見上げたり、あるいは喧嘩したり、仲直りしたりすることもできないってことだ。
ある人との関係性を、積み上げることも、改善することも、ブッ壊すこともできない。
それはね、想像以上に辛いことだよ。

前置きが長くなった。
私がアンケートへの熱意を失ってしまったところで、ランディさん登場。
ブログや本などの文章から、もっと近寄りがたいオーラを放つ大柄の女性を想像していたのだけど、シックなお着物(でも襦袢などに凝っていることを、着物好きのアタクシは見逃さないのであった)を着ているせいもあって、華奢でかわいらしいイメージだ。
でも、しゃべり出すと、その見かけのイメージとは全然違う潔さがある。

「そもそも、スピリチュアリティを学ぶということが、スピリチュアリティから乖離しているのではないでしょうか?」

なんて、のっけから言い放つので、思わず苦笑。
だって、会場の皆さんは、「一生懸命学びに来てます! どうぞ教えてください!」って雰囲気がバリバリに出ているのに、いきなりこんな牽制球。
おもしろすぎる。

ランディさんは、ご自分の豊富な体験を紹介しながら、私たちを揺さぶり続ける。
正しい答えを求める人たちに、自分で考えなきゃ意味がない、と突き放す。
私たちは常に矛盾を生きているのだから、答えはないけれど、考えて、考えて、考えて生きていかなければならないのだ、と繰り返す。

『無力こそ絆』になるのだという言葉が、とても印象的だった。
死にゆくことは無力を受け入れることだ。
どんなにお金があろうが、権力があろうが、いいお医者さんにいい治療してもらおうが、徳を積んで人のために尽くした人生であろうが、今のところ必ず誰もが死ぬ。
その無力さに寄り添うためには、寄り添う側も、自らが無力な人間であることと向き合っていなければいけないのだろう。

c0007384_16293456.jpg講演が終わってから、田口ランディさんの『聖なる母と透明な僕』(青土社)にサインしていただいた。
作家さんに直接サインをいただいたのは初めてで、ドキドキした。
そして、この本も、とってもドキドキする本だった。
そのドキドキ感と言ったら、会社帰りの電車の中で読みふけると、6駅も乗り過ごしてしまうというほどのものだよ!
6駅って、我ながら唖然とした。
ランディさんの本を読むと、いつも現実から飛ばされる。
すべてだと思っている世界が、実は狭い思いこみの世界でしかないことを思い知らされる。
それは一つの絶望だけど、なんて甘美な絶望だろうか!
私は、この現実世界を壊しても生きていけるのだ、きっと。
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by linket | 2008-12-19 19:56 | ●メメントモリ(死に支度) | Trackback | Comments(0)

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