自信を持つということがわからない
自信がないというか、自信がある状態というのがよくわからない。
『自信がある』という人は、いったいなにを頼りにそう言い切れるのか教えてほしい。
道端のサザンカがきれいに咲いていた。
サザンカは自分に自信がないなんて思わないだろう。
だってサザンカはサザンカにしかなりようがないから。
私だって私以外にはなりようがないのだが、そもそも『私』というものがうつろいやすくはかない幻みたいなものなので、そんなもの頼りにできるわけがない。
親の庇護下にあったときは、明確な指針があった。
親の言うことをきき、家の手伝いをよくやり、成績がよくて、友達が多く、先生にも気に入られ、つまりは社会に出て役に立つ人間になれ、と親はあらぬ期待(ありがちな期待というべきか?)をかけていたように思う。
もちろんそんな都合のいい人間にはなりようがないのだが、末っ子で要領がよく小器用だったことが災いして、私の自信はいかに人から評価されるか、という基準で培われていった。
その基準で言ったら、成績はよかったです。
なんのバイトをしても、使えると言われていい気になっていたし、正直、私のようにできないヤツは馬鹿にしていた。
他人と比較して優れていることを自信というなら、あのころの私は自信満々だったな。
あんなのが『自信』というものの正体なら、今の私はもういらないけどね。
この間、『もっと自信をもって! 大丈夫だよ。自分の積み上げてきたことを振り返ってみて』と言ってもらった。
そんなことを言われて改めて考えてみたら、自信がなくて、不安で、心細くて、それが凝り固まって重く冷たく凍っている自分の一部を発見してしてしまい、非常にとまどっている。
こんなに自信がなかったのかよ、私・・・。
でもそれは、多面体である自分の中のある一部分でしかない。
見てみないふりをすることはもうできないけれど、そこにばかり焦点をあてても、真実の私が浮かび上がるわけではない。
そういうダークな部分があることを受け入れつつ、これからどんな自分になっていきたいか? の方が私には重要だし。
私はもっと伸びていきたい。
愛する人と上手にコミュニケーションがとれるようになりたい。
自分が受け入れられないと思うことに、過剰反応しないようになりたい。
愛することと、現実的に生きることのバランスをうまくとれるようになりたい。
つまらないことに傷ついたり、過去のパターンで泣いたりしたくない。
そしてなにより簡単にあきらめたくない。
自信はなくてもいいかな。
真摯に人生を積み上げているうちに、「おお、これが自信を持つってことか!」ってわかったら、またご報告しますわ。